2022年2月28日、現況に寄せて

 
私は想像力とか感受性みたいなものが乏しいらしい。
たとえば、家を出て角を曲がって家が見えなくなったら、家の実在みたいなものが急にわからなくなる。
家というのはある日突然消えたりしない、永続性を保っているものだと理屈の上では知っているのだが、それでも、帰ってきて目にするまでは、やっぱり家って本当にあるのかな? とどこかで思っている。
 
周囲の人にこの話をしても、だいたいの人が首を傾げる。一般的に、人は、家の存在を信じられるようだ。
だから、離れた見えないところには、たくさんの人が暮らしているよ、と言われても、いささかピンと来ていないところがある。
田園調布も喜望峰も、本当にあるのかしら? とやや感じている。現代人としては不便な認識だと自分でも思う。
 
でも、誰かが書いたり話したり、写真を見せてくれたり。こういう体験をしたと教えてくれた土地なら、その人を通じてその土地や人、出来事の存在は信じられる。そうして私に、土地を信じさせてくれる人たちのことを、私は好ましく思っている。
 
 
 
今。
自分の目で見るには遠すぎる場所で、人と人同士が争っている。そのこと自体に直接、痛ましさを感じるかというと、正直なところ、それはあやしい。
 
なぜなら、少なくとも私が生まれる前から、今に至るまで、紛争、戦争、内乱、侵攻…名前はなんでもいい、大規模な殺し合いは、地球上のどこかでずっと続いていたはずだ。そして私は、それに麻痺することで、自己の疲弊を減らしていた。
本来なら、このロシアとウクライナの戦争だって、そうやって目を背けたのだろう。角を曲がれば家は消えるのだ。
 
けれど、私が一方的に好ましいと感じている人たち、ただtwitterでフォローしているだけの人なんかも含まれているけれども、その好ましく思っている人たちが、今回の戦争で心を痛め、生活に不都合が生じている。
私にとって、好ましい人たちには心安らかに過ごしてほしい。
 
だから、ロシアの攻撃行為に端を発する、今のウクライナの状況は許しがたい。
縁の近しいものにしか感情を向けない、それが浅ましいと呼ばれるなら、甘んじて受けるしかない。
大義名分や立派な理屈はわからない。
許しがたいと口で言っても、できることだって少ない。
しかるべし機関に寄付や署名を寄せる、些細なことでも書き留める(書いたことは残る)、当地に心を寄せる、祈る、そして普通に暮らすことくらいか。
 
 
現況についてもう少し考える。ロシアという国そのものが悪いとは感じない。近しいウクライナ人とロシア人とが傷つけあう心痛がいかほどのものか、考えるに余る。かといって一人の指導者だけに責を負わせ、敵意を向けるのもなにか違和感がある。
 
もちろんプーチン大統領独裁政権に至る道筋を立て、侵略行為を起こした責任人物として、罪を問われ、行為を検証されるべきだろう。
 
けれども、何十万人もの兵力を動員する一大事に、たった一人だけが悪いなんてシンプルすぎること、あるんだろうか。もっと複雑な機序が地脈のように横たわっている気がする。
 
 
 
人命が失われる、人や土地が長きに渡って傷つき、人の心に不信が生まれる、戦争はそういうものだから悪い、反対である、と、一足飛びに理解することは私にはできない。
道を戻れば家が必ずある、そうした仕組みが信じられないのと同じだ。
 
 
何が、誰が、悪いではなく。
私の好ましい人たちが、心を痛め、苦境に陥り、生存と生活を脅かされる事態を、私は否定する。
私の好ましい人たちが好ましいと感じる人たちが、心を痛め、苦境に陥り、生存と生活を脅かされる事態を、私は否定する。
私の好ましい人たちが好ましいと感じる人たちの好ましい人たちが、心を痛め、苦境に陥り、生存と生活を脅かされる事態を、私は否定する。
 
自分からはじまる連鎖の先に、ようやく実感としての、戦争に反対するという私の意思が灯る。
 
 
 
ロシア語の、Нет войне(戦争反対)という言葉は、
「Мы должны говорить войне НЕТ」(私達は戦争に対して絶対反対と言わなければいけない)の略であると教わった、という話をtwitterで読んだ。
 
「戦争反対」という四文字熟語の日本語はぺらっとした感触になってしまいがちだが、「Нет войне」は手触りがどっしりとしていいな、と思った。